昭和49年2月18日 月次祭●★
昨夜、お夢を頂いておる。それをあの、コロッと忘れてしもうた。それをただ今のあの、御祈念中に「ああ、今朝こんなお夢頂いとった」というて思って、思い出さして頂いた。皆さん、信心を頂かれ、合楽に御縁を頂いて、信心の稽古をそれぞれになさっておられるが、ほんとにあの、ご信心を頂いておって良かった。合楽に御神縁を頂いておって良かったと。どうでしょうか、そういう実感をなさる時はないでしょうか。
または、ないにいたしましても、それは金光様であればどこででも助かられる。いや、金光様に限らん、やはりいろいろな宗教があって、そこでもやはり、皆さんがおかげを受けておるという程度ならば、何様でもやはりおかげは受けられる。ただ縁あって合楽に縁を頂いておるというだけ。そういう縁からだんだん、ほんとに合楽でなければできなかった、合楽にようこそ縁を頂いておった、と思わせて頂けれるほどしの、私はおかげを受けなければいけないと思うですね。
そこにあの、合楽の信者、言うならば、合楽の教会長大坪との皆さんとの交流というのは、そこから始まると思うんです。「ああもう、金光様ならどこでも」といったようなことではなくてね、ほんとにこの合楽でなからなければできなかった。合楽に縁を頂いておったということが、今日の私のこの心の上にも形の上にも頂いておるおかげであると。それをいよいよ深く広く思わせて頂くところから、信心の稽古がなされてくる。
今朝のお夢。今朝方といい、まあ今朝じゃなかったですけども、いよいよほんとにあの、思いもせん事をいろいろお夢に頂くもんですね。やっぱりこれは御理解だったから思います。
●私のあの、今一番下の栄四郎がその、「どうかして人を助けたい」と言ってるんです。それで「どうでもここにお金が要る」と言っておる。ね。いくらいくらお金がなからなければ人が助けられん、と言っておるんです。それを聞いて私がモヤモヤしよる。
「どうでも金が要る。金がないなら人が助けられん」と言う。それで私が、まあ自分でしたことも思うたこともないのですけれど、私は、まだ子供に手を当てたこともなからなければ、家内に手を当てたこともないです。それにもう、私がその栄四郎を(べんぷを?)こうやって(はちはちはじきよった?)。ね。そしてね、「金でどうして人が助かるか」って、ね。「物でどうして人が助かるか。お前自身が助からずしておいて、人がどうして助かるか」と言っておるわけ。
もう私それもう、もうなんか悔しくて、それが分からんことが悔しくてたまらん。そのような気持ちで叩きよる。そして、横にそれがその、若先生が立って見よるんです、勝彦が。ね。「勝彦、お前もこの事が分かっておるか!」と私が怒りよるとです。そしたら勝彦がね、知らくれ(?)どんしてから、「はーん」ちゅうごたる顔をしとるとです。
ほんに今朝、あげなお夢ば頂いておったと思うてですね。なるほど私は、とにかく自分自身が助からなければ人がは助からんと思い、ここ、そこにこれは精進し、一生がかりでこの事に取り組んでおる。自分が助からずして人が助かるか。人が助けたい助けたいと言うて、言うておるだけで助かるか。いいや、金があれば助けられる。金で助けられる。いや、金で助かった助かりがほんとうの助かりになろうか。そういう分からんことを言うて、と言うて、私が歯痒い思いで子供を叩いておる。
でそこで、立って見ておる。いわゆる一番下と一番上ですが、一番上の長男に「勝彦、お前もこの事が分かっておるか!」と私が言うて、まあ( ? )ところが、「ふーん」ちゅうて鼻であしらうような笑い方をしたところで目が覚めた。ね。
自分が有り難い、自分がおかげを受けておる。ほんとに誰も彼も、こういうおかげを受けたならさぞや、良かろうと、やはり思うことです。これはしきりに思います。私自身が、んなら様々な難儀なお取次ぎをさしてもらう時にです、ほんとに難儀なことだなぁと。けれども、私はひとつも難儀と思わない。おかげとしか思わない。かえってお礼を言うだろう、というような事に、皆さんが苦しんでおる時にです、なら私のところまで心が高められたら、皆さん、日々が有り難いもったいないだけではなくて、それに伴うところの、言うなら幸せの条件というものが足ろうてくるのに。どうしてここが分からんのだろうかと。いや、ここが分からんということは残念。しっかり信心の、なんとか稽古をしておかげを、言うならば、私の雛型でも良いから頂きなさい。ね。
これはもう、しきりにやはり思うことであります。ね。だから自分も有り難い。そこでその有り難いの余りにです、歯痒い思い、人が助かっていないと、ね。今言う栄四郎が「人を助けたい」と言う。「ここにお金がいくらあったら助けられるけれども」と言う。「金で助けて助かるになるか!お前自身が助からずしておかげになるか!」ね。「お前自身が助からなければ、人は助かりゃせんのだ!勝彦、お前も分かってるか!」と言うてその、私の分かっておることをです、子供達に、長男と一番下の子供に一生懸命に、と言いよるということは、これは合楽の信奉者の全部の方に、私はそういう思いを持っておるということだと思うですね。
長男と一番下。一番上から、ピンからきりまでの信者がたくさんおります。そのピンからきりまでの人達がです、ね。信心によっておかげを受けたい。また、受けつつある、また、受けていっておる。また、信心のおかげで、こういう心の状態でおれるということを有り難いと思う。ほんとに合楽に御縁を頂いておって、おったればこそこのおかげが頂けておる。ね。
だから、そういう有り難いものを自分が頂いておるから、もし家内に信心がないならば、家内にもこの信心を与えたい。もちろん子供にもこの信心を受け継がせたい。ね。と言うて、なら、心が言うならば、信心の熱情でたぎってくる時には、それこそ叩かんばかりにして、ね。ほんとの助かりの道を説いてもです、本人はその助かりの道を選ぼうとも、また学ぼうともしない。かと言うて、んなら、とにかく時節を待つより他にはない。ただ祈っときゃよかと、歯痒い思いをするけれども、まあ祈っとけばいつか神様はおかげを下さるであろう、というような、まあこの二つぐらいじゃなかろうかと思うですね。
皆さんの周囲の人、また身内の者。それにはです、んなら自分自身がやはり、ほんとの信心の助かりきりということは、なかなかありはしません。私どもでもそうです。まあだ限りなく助かっていかなければならんけれども、このくらいでも、信心により、教えによって自分が、こういう例えば難儀に直面しながらも、それを難儀と感じんですむということは有り難い。
この有り難いものを、子供にも伝えたい、周囲の者にも伝えたい。だから、タコを叩くようにして、ね。「あなた方も信心をなさい。もうこんなに有り難いんですよ」と言うて、まあ燃えておる時には、まあ人にも伝える。するともう答える「はあそうですかなぁ。そんなに有り難いもんですかなぁ」と言うて、聞いてくれても、「そんなら私もいっちょ連れて参って下さい」ということにはなかなかならない。歯痒いことです。ね。
または、自分がこの有り難い信心をしておるから、いつかは付いてくるだろう。まあ、神様にお願いしよるけん、いつかはおかげを頂くだろう、というまあ二つにあるだろう。二つです。まあその他は、んなら信心というものを、それほどしに有り難く感じていない人だと思うですね。
合楽に御神縁を頂いてお参りはしておっても、どうかしてこれを子供に伝えたい。家族中の者に伝えたい。親戚中にも、隣近所にも伝えたい。世の中の様々な難儀を見るにつけ思うにつけて、ほんとに金光様の信心さえあれば、こういうおかげが受けられるのに思う。それにはね、自分がほんとに、まあ、ある意味において、助かって行きつつあらなければ、そういう思いは起こってこない。
ですからね、言うならば、もうその頂いておる信心を、もうほんとにガムシャラにでも引っ張っていきたい、ガムシャラにでも伝えたいという有り方と。
んなら今日、私お夢の中で、ね。もう「ここがお前達分からんのか」と言うて、その子供を叩いてからでも分からせようとしておる。けれども、分かっとるじゃない、側で聞いておった長男に「お前もここが分かっておるか!」と言うたら、鼻で笑うように知らくれ笑いどもしておる。ね。いよいよ歯痒い。
けれども、それが伝わらない、分からないなら仕方がない。ね。だから、ただ今申しますように、そういう、例えば叩いてでも分からしたい、と思うような思いと、いつかは分かるだろうという思いと。自分はこれだけ助かって行きつつあるところの信心を、このくらいでも家族中の者が、自分が十の信心をしておるなら、家族の中の者が十の信心。いや、八の信心でもいい、五の信心でもええ。ね。してくれたらと思う。それは、自分が信心を頂いておることの有り難さが、ほんとに分かってきたら、そう思い、そう言わなければおられんのじゃないか、とこう思うです。
だから、その他に、それを思わないとするならば、合楽に御神縁を頂いておるということは、縁あって、こうやってお参りはしよるけれども、ね。それほどしに有り難いと思うていない。この三つの種類に分けるとなるんじゃないかと思うんです。ね、皆さんのご信心。皆さんがどういうことなっとるでしょうか。
子供達が信心してくれるようにと、ほんとに切に思うようなことがある、あるだろうかと。または、御祈念のたんびんに、「子供がどうぞ信心いたしますように」と言うて、祈っておるようなことがあるだろうか。こっちはまあ穏やかな生き方。こっちは激しい生き方。ね。しかし、それをも思わない。
ただお参りはしよる。ね。というのは、まだ、なら合楽の信心の有り難さというものを、まだ少しでも把握していないんだということになります。この三通りの信心。ね。
そこでです、まあ今日は、なら、合楽に御神縁を頂いておるということが有り難い。金光様のご信心を頂いておるということが有り難い。ほんとにこれを子にも孫にも伝えたいと思うておられるとして、お話を聞いて頂きたいと思うんです。
今日ある方が、熱心に信心の稽古をなさっておられます。かと言うて今度最近、悩みを持って、もうどんなに訳では分かっておる。ここんところは有り難く頂かにゃならんことも分かっておるんだけれども、有り難くなれない。ね。心がサッパリしない、スッキリしない。お参りをしても、拝んでも、御理解を頂いてもどうにもできない。自分でも歯痒いように思う。ね。
そして、自分の周囲の人達が、もちっと助かってくれたらいいのに、とまあ、自分の周囲の者のことばっかりを思う。心が憂鬱である。しようがないから、娘の所にやらして頂いた。そして、自分の心のうさをまあ聞いてもらった。そしたら娘が言うことがね。
「馬鹿じゃんじゃろうか。あんたもう、いつもあげん金光様金光様、有り難い有り難いと言いよってから、信心する者とせん者の違いがいっちょんなかじゃんね」と言うて怒られた。その瞬間、自分の心の中に閃いた。もう十分、思うておること知っておること分かっておることだけれども、ほんなこと信心のないもんも、ある者も同じことだと分からして頂いて、ね。それでこそ、私の信心が高められておる、磨かれておるのに気付かなかったことをお詫びをさしてもらいよったら、心が晴れたというお届けを今日はなさった。
「先生、すみません。もういつもこういう自分の苦しいことばかり、ご心配ばかりをかけて相済まん」とこう言うた。けれども私はその方に申しました。ほんとに広大なおかげを頂いて、こうです、ああです、もう毎日大繁盛のおかげを頂いております、というお届けをさして頂く時に、私は嬉しいとはひとつも思わん。はあ、それはおかげを頂いたね、とは言うけれども、さあこれからがほんとの信心じゃ、これからが、その頂いておるおかげをいよいよおかげにしていかなきゃならん信心であることが、この人が分かっておるだろうか。
けれども、おかげを頂いておることに有頂天になっとるけん、言うて聞かしても分からん。おかげを頂いて有り難い有り難いと言うておる時方が、私は心配だ。あなたが、例えば今日の、今日のようなことをです、言うなら、いつもお届けして、親先生にはご心配ばかりかける、というけれども、あなたの場合は、そういう難儀に直面するたんびんに、そういう心配事の起こるたんびんに、次の信心に飛躍しておられるということが、私は楽しい。私はそういうお取次ぎをさしてもらう時に、お取次ぎ者としての冥利を感ずる、というて、まあその方と二人で喜び合ったことでございます。ね。
そういう例えば難儀な問題をふんまえてです、その難儀な問題を通して、こういうところが分からせて頂いた。なるほど、難儀は変わりはないけれども、ね、ほんとにおかげを頂いたと。
何日も何日も、言うなら家の中に、物も言わんというような続いておったのが、もうほんとに有り難い有り難いと思うて、こげんして神様が鍛うて下さることが分からして頂いたら、胸がスッキリして帰らして頂いたら、何日ぶりにその、嫁が「ばあちゃんすまんけれども、ご飯炊いてもろうて良かじゃろうか」ちゅうた。もうそれこそ、飛び立つまで良かどこじゃない、というて、まあご飯の準備をさせて頂いたというわけです。ね。
自分がおかげを頂いたら、家族の者がおかげを受けておる。自分の心の光が灯ったら、もう家中が明るうなっておる。何日間という間、自分の心が真っ暗であるから家の中が真っ暗である。ね。これはほんとにそうです。皆さんがどんなに広大なおかげを頂いて「おかげ頂きました」って言う時ほど、その後に私は、言うなら(窮の念?)というかね。はあ、これからこのおかげをいよいよこの人がおかげにして行く。この頂いておるおかげの裏付けの信心ができることを願う。というて、んなら、そこんところこれから頂かなならんばい、というてもその若先生じゃなかばってん「ふん」というような、ふうにはしておらんでもです、なかなか、この頂いておるおかげの、言うなら裏付けになるような信心を、これからしなければならんというような人は、ほんとに少ない。
その証拠には、おかげを少し頂くと、もうそのおかげに腰掛けてしもうとるという事実がある。ね。これならいつまで経っても、ほんとうのおかげは頂かれん。それがよし頂かれたおかげであっても、そういうおかげは、言うならばほんとうのおかげじゃない。ね。
あるお徳の高い先生が仰ったというお話の中に、ね、信者が「おかげを受けた、おかげを受けた」という時が一番危ない。もう難儀な中に、苦しい中に、一生懸命の信心をさして頂いておるならば、どういう例えば難儀な突発して起こって来うともです、そういう一生懸命の彼が信心をしておる時には、大丈夫だ、と仰ったそうです。ほんとにそうです。ね。油断がない。おかげを受けると油断ができる。ね。そこでできる油断を、油断と気付かせて頂く信心というか、ね。
今朝からもう皆さんに申しましたお話の中に、ね、人間と自然との、言うなら調和がです、取れて行くその事実を、自分で日々の中に感じ取っていけれるだけのものを、まあ頂いておかなければいけない。その為に合楽では、そこんところを成り行きを大事にして行く。全ての御事柄を御事柄として受けて行くというような修行をさしてもらう。自然に起きてくることを有り難く受けて行くという稽古をしておるから、自然もまた、その受けておるその氏子の上に神様が、ね、自然が寄り添うてきて下さる。ね。
私どもが寄り添おうとする。神様もまた寄り添おうとして下さる。「成り行きを大事にして行く」ということは、言うならば「神様を大事にする」ということです。ね。神様の働きそのものを大事にする。だから、神様も大事にして下さろうとする働きが始まる。そこにです、ね、自分の周辺に神の姿を見ることができ、神の声を聞くことができる。「おっ、それは間違いぞ、そうではないぞ」というふうにです。
今日も私、午後の奉仕の時にその、調子に乗ると、もうどげなことでも思う。どげなことでも思うということは。私の例えば手続きで言うなら、小倉、福岡、久留米、そして三井教会。ね。だから、手続きの先生方の信心の流れというものを頂いて合楽あるのだ。そこで、なんかいつかというような時には、言わば、そのおかげの御恩に対して報いなければならない、というようなことにいつも思うておる。
そこで今度、ある教会の記念祭であり、またその事をしきりに思わしてもろうた。それで米を十俵、何々をどう、お初穂をこう、と心の中に描きよった。ね。そしたら、今朝からもう、お話しましたがあの、昨日勘三郎親子じゃありませんけれども、あの人達一門のお芝居があってました。その中に、勘三郎と勘九郎というあの、息子ですね。まだ十代ですけども、なかなかな名人。
親父も信心の虫なら、子供もまた、信心じゃない、芸の虫ならです、ね、子供もほんとに芸の虫。こういうのが名人になるのであろう。名優になるのであろうという兆しが見えるほどに素晴らしい。まだ十代ですけれども。ね。
この頃からもうテレビでなんか一問一答しておりましたが、「これだけのことを身に付けて行く為にはたいへんな修行が要るだろうが。やっぱ苦しいなぁと思うようなことがあるでしょう」と言うた。「僕は、それをまだ感じたことがかつてない」と言うた。もう夜も夜中もない、思うたらもうあの、自分の家に稽古場ができておった。そこへ行ってレコードをかけてその、一晩中でも踊り明かさしてもらう。もうそれが楽しい、ということ言ってます。
なるほど、この親にこの子があると思います。ね。それを昨日あの、化け物ばっかりがでるお芝居でした。それをねその、勘九郎が傘の化け物のあの、踊りを踊ってました。いわゆる傘ですから一本足です。しかも高歯の下駄を履いてる。そして、舞台狭しとリズムに乗って踊っておる。もうよろっともせん。あらぁまあほんとにたいしたことだなぁ、と思うんです。ね。皆さんも御覧になった方あるでしょう。ね。一本足で、しかもそれに高下駄履いて、しかもその、まあ緩く遅くそのテンポに乗ってです、舞台中を踊り回っておる。ちょっとでもよろっとでんせん。ね。
その、そういうことを今朝の御理解の中に聞いてもらった。ね。「若い者は、本心の柱に虫を入らせなよ」と言うが、ね。若い時に、まだ若葉、若木の時に虫は付くもんだ。ね。親が、それこそ甘やかしほうだいに甘やかしておって虫が付いて、もう手が負えんごとなって「神様お願いします」と言うたって、なかなか難しい。もうこれは親自体が改まる以外にはない。親から見た若い者に対するところの信心について今朝頂いておった。
それをなら、勘三郎と勘九郎のね、言うならばその、芸ごとにおいてはです、ね。もう他のことはともかくとして、もう芸のこと対しては厳しい、やかましい。ね。そのやかましい厳しいを子供としては、ひとつもやかまし厳しい、つらい苦しいと思うたことがないというほどしに、親の芸について行こうとする。ね。親が親なら子供も子だと。「はあ、稽古せにゃ稽古せにゃ」と言うて稽古するようなことではね、だから結局は、ね。
子供に、例えば虫が付いたとするならです、その虫の付いた原因は、私は親にあるという意味のことを今日は聞いて頂いた。ね。
今朝から私がその、★御心眼にその勘九郎の傘の踊りを頂くんです。御心眼に。そして御神訓あの、開かせて頂いたら、本心、「若い者は本心の柱に虫を入らせなよ」ということでしたから、ね。信心も、例えば勘九郎のような生き方で行くならばです、ね。不自由なら不自由をも常としての生き方を若い時にこそ身に付けておくならばです、虫の付きようがない。ね。
もう立派な一本立ちの木になったら、少々虫が付いてもその虫には負けないけれども、若木の時に、若葉の時には、虫に付かれたらもうお終いである。ね。一番大事な時。だから、その大事な時をです、親の、言うならば今日は私は責任だというふうに聞いて頂いたが。
ちょうど、中村、あ、午後秋山さんがお参りをしておられてから、あの御理解を頂き終わってここで来て、「ほんにあの、今日は勘九郎の御理解がでておりましたが、実は私も昨日あれを見せて頂きました」とこう言う。「いや、それはね、今私もここでね、ある事を思いよったら、ちょうど、またあの勘九郎のあの傘の踊りを頂いて、御理解にね、頂いたことはこういうことを頂いた」というてまあ聞いてもらった。ね。
私が、さあどこ、今日は自分の手続きのどこどこの教会の記念祭でだから、その時に、さあ、これと米を十俵ぐらいお供えさしてもらおう。お初穂もこがしこさしてもらおう。ああも、といろいろに思わせて頂いとったらです、ね。神様から、今のその御心眼を頂いて、ね。「ここのお広前だけはです、お前の、言うなら傘一本で開けた道ぞ」ということを頂いたです。
ここは親のおかげでもなからなければ、言うなら手続きのおかげではないっち。信心は頂いておった。けれども、安心のおかげを頂く為には、自分自身の信心修行によって、安心の心開いたのは、のだから、他所のおかげではない。ここの、合楽の開けるのばかりは、お前の、言うならば安心のおかげ、その傘のお知らせを「安心」と仰る。ね。
傘一本を持っておれば、どこに行っても、どんなに曇ってきても不安ではないでしょう。傘を持っとるから。濡れんですむという。傘一本持っとるそこまでの信心を高めたのはお前自身だ。誰のおかげでもない。お前の安心のおかげによって、この、ここの道が開けたんだ。合楽は開けたんだと頂いたです。ね。
時々私どもはやっぱり人情が過ぎることがある。ね。もちろんそれは、私どもの先達であり、また手続きであるから、お参りもしなきゃならん、お供えもしなきゃならんけども、突飛なことを私が考えておったらそういうことを頂いた。どこ教会のおかげじゃない、誰々さんのおかげじゃない。ここばっかりはお前の信心によってではなくて、お前の信心によって生まれた安心のおかげ、お前の信心によって頂けたところの、その一本の傘によって合楽は開けたんだと。ね。
そこで私が今朝から頂いたお夢の中からいろいろ思うのです。ね。合楽に御神縁を頂いておることが有り難いと分かったら、それを子供にも孫にも、いや、家内にも主人にも、信心がないならそれを伝えさえしてもらったら、と切に思う。
舅、姑の間なんか、ようは信心のない場合なんかはです、ほんとに嫁子に信心を与えたいと思う。ね。たまには言う事もある。心ではいつも「はあ、この人がここに信心があったなら」と思う事があるけれども。そういう思いでしてもです、今朝お夢の中に私がです、栄四郎と勝彦の上にね、「人が助けたい、金でどうして助かるか。お前自身が助からずして人が助かるか。そういうことばっかり言うて」と言うて私が、栄四郎の(でんぷ?)をはじきよった。
側に立っておる若先生に「お前はここんところが分かっとるか!」と言うて大きな声をしたら、ね。知らくれ(?)にしておる。これは、私、そういうこと、なら子供達思うたこともないのですから、今日は、今晩の御理解だと私は思うた。今朝忘れておった。で、今日のこのお祭りに思い出した。ね。
そして、んなら、長男と一番下ですから、なら、ここでなら、秋永先生を、まあここで先頭とするならば、まあね。先生方をここで先頭とするならば、ね。ここに御縁を頂いておる老若男女。ね。みんなのご信者さん方にです、私がそういう歯痒い思いを持って、「ここが分からな」と言うて、たくを叩いて言うたところでです、それは始まらんということです。ね。
そこでどういうことかと言うとです。いわゆる、今頂きます「安心の心」「喜びの心」その喜びの心をもって子供の事を祈れ、喜びの心をもって自分の家内の事を願える。信心の、ね、してもらわなければ困るという人の事を祈れと言うのです。だからね、この安心の喜びをまず頂く。この事が先決だと。ね。
私が栄四郎に言っておるように「自分自身が助からずして、人が助かるか!」と。金で助けたっちゃ、ほんとの助かりにはならんのだ。財産で、あるけんと言うて、財産のあてしておるようなことでは助からんのだ。ね。信心をもってしなければ助からんのだ。だから、んな、この信心をこのくらいに有り難く頂いておるから、合楽に御神縁を頂いておることを有り難いと思うほどしの人ならばです、それを過激な人は、もうそれこそ引っ張って来ようとして、三つの話をするだろう。
また、穏やかな人は、「いつかは分かってくれるだろう」と言うて、ただ神様にお願いをしよるだろう。それではおかげにはならん。ね。傘一本でここは開けた道であるようにです、みなさんの家庭の中にもです、みなさんが頂くところの信心の傘一本で開く道でなからなければ、ほんとうの道ではないということなんです。
「信心の喜び」「信心の安心」それもね、徹頭徹尾完璧ということはできませんでしょう。なら、この程度に頂いておる信心の喜びをもって、その喜びをもって子供の事を願え、孫の事を願え、信心のない人達の事を祈れ願えということなんです。
先日からもある人の事をお願いさしてもらいよったら、金光様のお言葉にね、「御祈念をするのに、拝ましてもらうのに、憎んだり、ね。または悔んだり、妬んだりというような心でね、神様に御祈念をする人があるげなが、そういうことでは神様には通じない。ね。実意をもって願わなければ、喜びをもって願わなければ」と今の教主様が、お孫さん方、家族の方達にお話になっておるお話を頂いた。「ほんとにこん奴が、いっちょ信心してくれると良かばってん」ちゅうごたることで願ったっちゃダメだ。心で責めよる。ね。
ただ自分の頂いておる傘一本で開く道なんだから、まずは自分自身がです、本気で傘一本を頂かなければいけない。ほんとの信心の喜びから生まれてくる、安心のおかげを頂かなければならない。その信心の安心、その信心の喜びをもって、神様に願う時に縋る時に、いわゆる合楽が開けたように、みなさんのお家の中にも開けてくるものがあるということでございます。どうぞ。
明渡 孝